たとえば、ここに1個のボールがあるとしよう。
それを僕と君が二人で見ているんだ。


見ているボールは1個。
二人で見ようが何人で見ようが見ているボールは
同じ物だ。


だが、僕はこの世に一人だ。
君もこの世にたった一人しか存在しない。
僕は僕が見ているボールは知っているが、
君が見ているはずのボールは知らない。


同じ時間の中にいて、同じ空間の中にいて、同じものを
見ていても、君の目線でボールを見ることは一生ない。


世界に64億の人間がいる。
言ってしまえば、それぞれの人の内側から物を見ると
64億人がそれぞれ「自分」なのだ。


生まれ変わりというものを信じている訳ではないのだが、
こういう考え方はどうだろう。


上手く説明できないが、自己というものは生まれたときから
あるものではなく、成長していく中で形成されていくものだと思う。
つまり、はじめから「僕」という人間が生まれてきた
ということではなく、過去何百億人と生まれてきたヒトの中で、
たまたまこの肉体に「僕」という人格の意識があったために
「僕」が形成されてしまったということではないのだろうか。


肉体が死んでしまえば、当然意識も記憶も消滅し、自己も
なくなってしまう。
しかしそれはそもそも「僕」という存在があるからのことであり、
「僕」がなければ、「他人」もないのだ。


たとえ僕が死んだ後の世界でも、毎日どこかで赤ん坊が
生まれてくるだろう。
その赤ん坊たちは成長していく中で、それぞれ自己が
形成されていくはずだ。


その中の一人がその時代ではまた「僕」かも知れない。


その時代の「僕」は過去の時代の「僕」を知らない。
当たり前だ、自分の意識と他人の意識はつながっていない。
ましてや、過去の自分ともつながってはいないのだ。


では、何を以って「僕」は「僕」だと言い切れるのか?
自分が自分であると言い切れる唯一の理由は、「僕」という
肉体の内側に「僕」の意識がある、という感覚だけなのだ。


おそらく、他の動物には「他」という概念がないのだろう。
「他」がなければ「自」もないのだ。
目の前に広がる世界のすべてが「自分」であれば、
もはや死を恐れる必要はない。
たとえ自分が死んだとしても誰かがこの世界を引き継いでくれるのだ。


たとえ牛や豚が殺されるために生まれてきた「生」であったとしても、
彼らはそれを悔やむでもなく、日々淡々と暮らしていく。


死について考え、死を恐れるのはヒトだけだ。


それは「僕」と「君」がいて、「君」は「僕」と違う個体だと
いうことをお互いに認識し、尊重しあう。
そしてその結果、みな自分の死を恐れ、身近な人の死を悲しむ。


ヒトはそれを「愛」と呼ぶんだ。