月と深海魚


僕は暗い海の底で、目を覚ました。


目を覚ましたとはいえ、深海2,000メートルのここには
かすかな光すら差し込むことは無い。
もっとも僕には生まれつき目が無いので、何かが見える
はずもないのだが。


人間は僕のことを不思議な生き物と呼ぶ。
想像を絶する水圧の下で、見えない目を瞬かせながら、
泥の上を這い回る不可解な生き物だと。


明るい海面を目指したことなど、一度も無い。
200mも浮上すれば、慣れ親しんだ水圧から開放された
僕の体が内側から膨張し、内蔵が破裂して死んでしまうのだ。
そのことを僕はよく知っている。
この暗黒の海底こそが僕の生きるべき世界なのだ。


ああ、僕を誘惑するのはやめてくれ。
リュウグウノツカイよ。
その白いたなびく体を僕の前でくねらせるな。


確かに君はこの暗黒の世界を、優雅に泳ぐことができる。
地べたを這い回ることしかできない僕とは大違いだ。
僕がいくら逆立ちしたって、君のように凛として
振舞うことは無理なのだ。


ある日、ガイコツエビの爺がお伽話を聞かせてくれた。。
「この世界のずっとずっとはるか上空に、月という
丸く白く輝く、それはそれは綺麗な巨大な球が
浮かんでいるのじゃ。
そして、月が深く深呼吸をするときに、この海の水は
大きく引き寄せられるのじゃぞ。」
そのお話は、僕の心を震わせた。


もしもこの世に神がいるのなら、たった一度でいい
僕の願いを聞いてくれ。
この海をはるか昇って行った場所に、輝いているという
月を僕に見せてくれ。


そのために、この体が破裂したって構わない。
この、努力する能力すら授けてもらえなかった、
我が身になど何の未練も無い。


僕のはるか頭上にいるはずの、見ることすら叶わぬ月よ。
君と僕が出会うことなどあるはずもない。


ただ、この海の水がかすかに揺れるとき、君の存在を
僕は感じるんだ。