死について②


ガリバー旅行記」などで知られている
ジョナサン・スイフトは死について、
こんな言葉を残している。


「死ほどに、自然で、不可欠で、不偏なものが、
神の摂理によって、人間への災いとして目論まれた
などというのは、ありえないことである。」


昔、ウチの田舎の方では、年寄りが亡くなると
「よう、長生きしんさった。」と言って、
喜んだという。
みんなにこやかに故人を送ったそうだ。


早い遅いの差こそあれ、死はこの世に生きとし
生ける者すべてに平等に訪れる。
そんな自然の摂理である「死」が人類に対しての
「災厄」であるはずがないとスイフトは述べているのだ。


誰かに死が訪れたとき、その人と親しかった人は
嘆き悲しむ。
それは、ヒトにのみ与えられた「記憶」(その中でも
特に「意味記憶」と「エピソード記憶」)という機能が
大きく関与していると考えられている。


愛する人の過去の行動、言動、エピソードを「思い出」
という名のフォルダに入れて、ずっと保存して置けるのは
人間という種だけだろう。
また、その記憶に「懐かしい」という名の特殊な
フィルターを掛けて、何十年も後に取り出すことができるのも、
人類のある種の特技であるはずだ。


その「記憶」と「感情」ゆえに、ヒトは死を恐れる。


しかし、もしもスイフトの言うように、死が人類にとっての
厄災でないのであれば、僕たちはもはや死を恐れる必要は
ないのかも知れない。


死の先に何があるのかは分からないが、大きな流れの中の
ひとつの「通過点」であると考えると、少しは平穏な
気持ちになるというものだろう。